2006-06-08 第164回国会 衆議院 教育基本法に関する特別委員会 第12号
東京文理科大学学長の務台さんが、公に仕える人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない、それが日本には欠けていたのではないかとおっしゃり、それを受けて芦田均さんが、自分のために生きるならまだいいので、他人にすがって生きるような根性が日本人には非常に多い。ある方が、両方をあらわす言葉はないのでしょうか、自他とかと述べていらっしゃいます。
東京文理科大学学長の務台さんが、公に仕える人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない、それが日本には欠けていたのではないかとおっしゃり、それを受けて芦田均さんが、自分のために生きるならまだいいので、他人にすがって生きるような根性が日本人には非常に多い。ある方が、両方をあらわす言葉はないのでしょうか、自他とかと述べていらっしゃいます。
ああいう格好だったら、これはつくばに行った意味は余りないし教授の思想を抑えて、学生運動を抑える、そういう意味はあったかもしれないけれども、今や従来の教育大学と東京文理科大学の面影は余り 見えませんね。ということは、これはちょっと付録として申し上げておく。文部省の方からひとつそのことについて、いいですか、夜間の学校の問題ですね。
体育専門学校であったり、東京高等師範であったり、東京文理科大学であったり、それぞれの歴史がございまして、今日、国立大学の学部は、それぞれ戦前からの歴史をしょった一つの学校として運営されていた面もございます。
また、教育の問題につきまして、特によい教師をつくるという伝統を持ってきた東京高等師範学校、東京文理科大学、そして東京教育大学は、今回の一片の法案によって、その存在が消えるという悲劇を持っている。事実上これは抹殺されるということを私は残念であると質問をしたのでございますが、現実によい教師を育成した歴史と伝統は、抹殺されることに法案の上で決定されようとするのであります。
○受田委員 東京教育大学は、広島の高等師範学校、文理科大学ともどもに、かつて東京高等師範、東京文理科大学と称せられて、日本の教育の中心になる人物を育成した大学の歴史がある。その歴史はどういうふうに生かされるわけでございますか。
もちろんそれは、教育大学の前身であるところの東京文理科大学とか東京高等師範学校、またそれ以前の前身である東京師範学校ですか、そういう経過を経てきているわけですけれども、それらの教育機関が日本の教育界及び研究という面で果たしてきた役割りというものは、非常に大きく評価していいと思います。
また同時に、東京教育大学は、東京文理科大学の伝統も引いておるわけでございまして、充実した研究の体制を持っておるという流れをくんでおります。教育学につきましては、全国の各地域にございます教員養成学部の教育学の中心になるべき大学である。それはむしろ大学院において教育学の力強い充実を考えるべきものではなかろうかというふうに考える次第でございます。
えていらっしゃったいわばビジョンの決定、そういう意味におきまして、たとえばこれもそうですし、おたくの出しているもう一つの小さいパンフがありますね、こういうもの、つまり、文部省大学学術局が「筑波大学の理解のために」という形で出している文書の一番先、それからあの小さいほうのパンフレットですね、そういうものを見てみましても、筑波大学の経過に関しては、たとえば「これまでの経過」というところで「東京教育大学は、もとの東京文理科大学
それからまた東京文理科大学をつくるというような過程で、かなり幅広い論議があったということは聞いております。
○木田政府委員 東京教育大学は東京高等師範学校、東京文理科大学、東京農業教育専門学校、東京体育専門学校が昭和二十四年五月に東京教育大学として統合新設になったものでございます。
君は、茨城県師範学校、東京高等師範学校卒業後、郷里の小学校訓導、島根県師範学校教諭を歴任するとともに、さらに現在の東京教育大学の前身である東京文理科大学に進み、昭和十五年同大学卒業後は中国に渡り、北京日本中学校教諭、北京工業大学教授を奉職、その上昭和二十年祖国日本帰還後は茨城県立境高校教諭を勤務するなど、戦前戦後を通じ、まさに君は教育一筋の道を歩まれたのであります。
副会長の河原先生は古い文部次官でございますが、東京文理科大学の学長、枢密顧問官等をおつとめになった方でございます。高坂先生は、ただいま御指摘のとおり。平塚先生は教育研究所長ということで特にお願いをいたしておるようなことでございます。教育研究所というのは、教育行政、教育内容についての総合的な文部省直轄の研究機関でございます。そこの成果を中教審に反映するために特にお願いをいたしておるわけでございます。
藤岡君は、大正十四年三月大学卒業後、東京文理科大学助教授等を経て、昭和十六年五月同大学教授に任ぜられましたが、同三十年十二月退官したものでありまして、この間、大学の理学部長及び大学の光学研究所長等の職にあったものであります。
藤岡君は、大学卒業後、東京文理科大学助教授を経て、昭和十六年五月同大学教授に任ぜられましたが、その後東京教育大学理学部長を経て、現に同大学研究所長及び日本学術会議会員の職にあるほか、科学技術行政協議会の委員の職にもあるものであります。
昭和五年京都大学哲学科卒業、続いて東京高等師範学校、東京文理科大学、それは現在の東京教育大学でありますが、そこで助手、助教授、教授と勤めてきまして、昭和二十年十月に文部省教科書局編修課長に就任しました。そして昭和三十二年の八月に文理科大学教授に帰りまして、自来東京教育大学教授として今日まで勤めてきております。以上であります。
お手許の履歴書で御承知のように高橋君は、大学卒業後、慶応義塾又は東京文理科大学において二十数年間に亘り教鞭をとり、昭和二十二年一月文部大臣となりその後日本芸術院長、国立博物館長等を歴任し、昭和二十五年八月文化財保護委員会委員に任命され爾来該博な知識をもつて文化財の保存、活用に尽力してきた者であります。
北海道で小学、中学を終尾、それから東京の高等師範学校の文科第一部第三学年を終つて、東京文理科大学哲学科を卒業しましたのが昭和十六年、昭和十六年四月から昭和十七年の十月まで、北海道の旭川師範学校の教諭、それから昭和十七年十一月から昭和十八年の十月まで京都大学大学院文学部哲学科において勉学、昭和十八年十一月三十日に召集されました。
それから昭和十三年東京文理科大学哲学科に入りました。それから昭和十六年四月から昭和十七年の十月まで北海道の旭川師範学校の教諭でありました。それから昭和十七年の十月から昭和十八年の十一月まで京都大学院の文学部学生でありました。それから昭和十八年の十一月に召集になりました。軍隊の経歴は……。
実に昨年の夏に、東京文理科大学と東京高等師範と東京農業教育專門学校と東京体育專門学校と、この四つが集まりまして、一つの大学を作りますにつきまして、いろいろ名称の選択等について意見の不一致があつたのでありますが、私共といたしましては、この大学が東京帝國大学と、從來の東京帝國大学と違つた特別の存在理由と、性格とを明らかにいたします点で、教育大学にいたしてはどうかという案を提示いたしまして、一應四校の代表者
これは東京文理科大学と東京高等師範学校との両者の間にいろいろ意見の対立があつたようでありますが、かような問題は学校当事者間におきまして自治的に決定すべき問題でありましてこれを國会に持つて参りまして政爭の具に供するようなことは、大学の自治の建前からいつて、まことに遺憾なことと存ずる次第であります。
本委員会はきわめて愼重審議を重ねまして、その審議の過程におきましては、参考人として東京大学教授海後宗臣、東京文理科大学教授石山脩平、日本教職員組合の江口泰助、金本東次郎の四君の意見も聽取いたしたのであります。 かくて、民主自由党を代表して水谷昇君より両法案に関する修正案が提出されました。
梅原 眞隆君 堀越 儀郎君 山本 勇造君 鈴木 憲一君 藤田 芳雄君 政府委員 文部事務官 (文部省学校教 育局次長) 剱木 亨弘君 文部事務官 (教科書局長) 稻田 清助君 証人 東京都立川委員 会事務局学務部 長 澁谷 徳雄君 東京文理科大学
この大学は東京文理科大学、東京高等師範学校、東京体育專門学校、東京農業教育專門学校、この四校をまとめて、一つの大学を設置しようという案でございます。そうしてこの学校名につきましては、まず参議院の文部委員会において、文教大学よりは教育大学の方が、よりふさわしいという勧告が行われたのであります。